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すずとことりと 

~21世紀の出張絵本屋さん。読んで、歌って、ときどきマルシェ~

「音楽教室発表会大人の部」は自由の国

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「出しきった感いっぱいで脱力気味の一週間」 

やっぱり今年も1年のピークを発表会に合わせて持ってきてしまった。 発表会が終わって感じる1サイクル完了させて全力出しきった節目感。終わった~!というこの感じ。

振り返ると前回の発表会からの一年間に、自分の「歌いたい」「歌って自分を試したい」という望みがいろんな場所で叶えられてきた奇跡がありました。

ミュージックサロンヨシカワさんでの朗読会で素晴らしいピアノの伴奏で歌わせてもらい、大人絵本の夕べでオーナーさんのギターに合わせて歌い聞かせしたり讃美歌を歌わせてもらったり、雪の日のStillRoomで夢のように素敵なシチュエーションで優子さんのビオラと歌い、それから、優子さんとの練習で声を合わせたモーツアルト、まったり癒しカフェで「ことりのさえずり音楽会」までさせてもらった。それから、PTAのコーラス交歓会と地域のコーラスの発表会。

こんなにたくさんの機会に恵まれたこと今までありませんでした。 歌を発表するという機会は沢山の方々の助けと支え、そして聴いてくださる方がなくては成立できなくて、だから実現したらそれはもう、「恵み」としか呼びようのないもので、自分一人では決してできないことなのです。「恵み」を受け取ることが出来て歌った時、その都度かならず、私が歌うことを許して場所を与えてくださった方、手を差し伸べて引き上げてくださった方、共に音楽を作ってくださった方、そして聴いてくださった方がいらっしゃいました。 あらためてこれらの事実を考えてみると、私に向けて寄せていただいた多くの方々の優しさに、感謝の思いが湧いてきます。受け入れられるなんて無理としか思えない実力なのに、毎回、場所は違っても、かならずふわりとやわらかくあたたかい空間で歌わせてもらってきた!しみじみ考えてなんだかこれを書いている今この時、幸せが満潮のようにわたしがいる空間中に満ちてきて有難さでいっぱいになっています。

動画を見ていただけば即お分かりいただけるように、こんなんなのに!?です。
全っ然、うまくないのに、ものすごく素晴らしい場と時の恵みに何度もめぐり合えたこと。それがどんなに自分にとって嬉しいのかを今これを書きながら味わっています。

そして同時にここにあるゴツンとしたもの。「練習」と言う名のこだわりのかたまりを見ています。

私の中にある「ヘタですいません!」と「練習できてない!」という2大罪悪感。 この二つがわたしをひっぱって恵みの場の幸せに影をさす状態があったこと。私に向けてもらった沢山のあたたかな厚意を素直にストレートに受け入れきれない状態をつくっていたこと。自分で練習をさぼり、自分で足をひっぱり、自分で自分を痛めている自作自演システム。その空しさをつくづく見ているところです。

意識は「発表会」を目指していてほかの時は体ができてなかった。心ではものすごく大切に大切に思っている場なのに、あわてて練習もしたけれど、コンディションと場を作るテンションを最低必要なところまで持ってくることができなかった。その反省もあります。

そして「発表会」は、たぶん10年以上続けているサイクルにはまって、プログラミングされたかのようにギリギリになってつじつまを合わせてくるパターンが発露していた。 直前の体調不良大爆発とウソのような回復劇があってその後、体幹がすーっと整って気が通って声の通る回路が開いた感じがやってきたのってもう本番のギリギリ前。

なんだか自分のそういうギリギリパターンがもう本当に、もう結構、という気持ちになったし、「練習なんだ!」「体なんだ!」ってこと。やっとリアルに腑に落ちた気がします。
ヘタなのはほんとうにもう分かった。ヘタだからと責めてくる来る人にも会わなかった。だから騒ぐヒマがあれば練習しようよ。と、つくづく思いました。

今のこのいい感じのコンディション。ここからスタートして始めたい。もう落ちたくない。3歩進んで2歩下がる、どころか2.9歩下がって0.1から始めるパターンはほんとにもう卒業したい。

 


「AveMaria/ Bach/Gounod」「Dondelieta/Puccini」

 「発表会のひみつ」

音楽教室発表会の大人の部。この類まれな味わいの時空。未体験の方には一度味わってご覧いただきたい。 わたしの所属する音楽教室では、声楽、ピアノ、フルート、バイオリン、チェロと先生がおられて大人の生徒さんもたくさん。年に一度ホールで発表会があり、入場無料・出入り自由で観ていただけます。 出る方にしたら、大人になってから、こんなに緊張して、追い詰められたような気持になれることって他にあるかなあ?!と言うほどの緊迫感。 生徒さんの中には「絶対に出ません!」と断固拒否される方も何名もおられるとのことで、出る、出ないは全く自由。

 そう、「自由」なのです!これが堪らない味わいを出しているのです。

出たい人だけが出て、見たい人だけが見に来ている。 入場料もないし、評価されるわけでも、点数つけられるわけでもない。 ただ緊張の面持ちで舞台に現れる大人が精いっぱい演奏しては去る。粛々と行われる演奏発表。それが素人なだけに、時に意図なしにアバンギャルドなまでに常識を超えた演奏があったりして、そのスリルとドラマに遭遇すると得した感が半端ない。とは毎回見に来てくれる友人の弁です。
演奏を飛び越えてむしろその人の背景、このステージで演奏するに至ったまでのドラマに想像を掻き立てられる。

わたしも毎年この場でご一緒する方に「なんでその楽器を始められたんですか?」とか「なんで出ようと思ったんですか?」とか思わず訪ねたくなる方がおられますが、でも実際ほかの方のことはよく知らないのです。

舞台の裏でも発表者同士の交流はないので。もともと全員個人レッスンで教室で顔を合わせることもない間柄な上に本番前の緊張でテンション張りつめていておしゃべりとかとてもできない雰囲気なのです。分刻みで練習室で伴奏合わせしてたり廊下でギリギリまで練習してたり、慌ただしいし。5番前には舞台袖で待機ですし、そこは沈黙キープ。神聖ともいえる空気が漂っている。

そして演奏以外はいっさい言葉を発することもなくステージを去っていく発表者。その徹底してドライな進行にも痺れる味があるとか。

ここでは、無事きれいに演奏が終わるよりむしろ、多少の破たん、とか、人物の存在感が強い方が観客に喜ばれる、あるいは何かしらの感銘が生まれやすい傾向があるのです。

自由で、ありのままが受け入れらる場所。

だからわたしは毎年この日をなによりも楽しみにして生きているのだと思います。

動画なんて見るとまあ!よくも、こんなことを!と、へたっぷりを晒している自分をみて二度と起き上がれなくなるようなショックと痛みを存分に味わいます。(けど、、、その段階もいいかげんクリアして練習段階で動画チェックしてクールに修正を重ねていく方向で今後はやっていきたいです。)

「こんな思いをするなら出なければよかったんだ。」

ほんとうにそうなのですが、「出る」「出ない」その完全に自分にまかされた自由な選択で「出る」を選んだ。その瞬間から始まった体験の幅と厚み。感情の起伏。ありとありとあらゆる出来事が派生した。 ヒリヒリしっぱなしのことばっかりなのに、それでも、「出る」方を選んで良かった。 幸せだった。まだまだやりたい。と思うのです。生きてる感じがする。生きててよかった。と思うのです。